hamuhamukunのブログ

アニメ、食、旅、ライブの日常系! 思ったことをそのまんま

「惡の華」を読んでみた - ヤバイ!!自己の成長を促す作品だった

今更だけど漫画「惡の華」を読んだ。

あのね、めちゃめちゃ面白かった!!

後半、“ヤバイヤバイ”を連発してた。(笑

ただそれに至るまではわりと長い。

 

この作品は中学偏と高校偏に分かれている。

中学偏はアニメにもなった。

このアニメは2、3話見た。

絵は漫画の方が断然良い。

アニメは音が入る分、不気味感は半端ない。

だけどその他はやっぱ漫画っしょ。

 

とりあえず中学偏は異常。

正直あまり好みではない。

 

3巻読んで、読み進めるかどうかを考慮した。

Amazonのレビューを見て、高校偏でのめり込んだというのがあった。

だから一応我慢して読んでみた。

そして読み終わった今思うことは、あそこで放り出さないでマジ良かったーー。

 

また言うが中学偏はマジで異常。

そしてわりと苦痛。理解も共感もできない。

でもこの中学偏があるからこそ、高校偏が栄えるの!

そういう意味ではアニメ「ひぐらしのなく頃に」みたいな感じ。

 

ちなみに5巻(中学偏の終わりの方)から面白くなった!

そして高校偏は夢中になって読んだ。

 

題材

この漫画の解釈は読者の数だけ違い、完全一致するものはないようだ。

 

ただ題材は“思春期”。

これは全巻の表紙に書いてあるから間違いない。

 

で、題材に関連してhamuhamukunがピックアップするのは3巻のあとがたりにあるこれ:

 

中年になって、ハゲて、しわができて白髪になっても、

自意識は思春期のままという人間は大勢います。

始まりは否応なくやってきますが、

終わりは向こうからやってきてくれません。

自分で見つけないといけないからです。

 

“ほーー”と思った。

物事が始まったら、自然に終わりが来るのが世の理。

だが作者の押見修造氏は思春期の自意識に対しては

自分から終わらせなければいけないと言っている。

こんな発想を聞くのは初めてだ。

 

それと同時にこうも思った。

自意識が思春期のままというのはオレではないか!

30目前なのに恥ずかしい。

 

そして全巻を通して読み、やはり自分はそのクソ恥ずかしい人間側の人であった。

 

hamuhamukunの解釈

 

hamuhamukunは現在“自分”を変えようとしている。

(はい、この年になってやっと)

 

そういう背景がhamuhamukunの解釈に影響を与えている部分があるのかもしれない。

だが、自分の考えはこうだ。

 

ある二つの行為をする事によって、“大人”になることが出来る。

逆に言うと、これらをしないと、思春期のマインドからは抜け出せない。

その二つの行為というのはこれだ:

 

それは逃げずに向き合う

他人を理解をしようとすること。

 

中学偏

 

“悪の華”が思春期を象徴しているのであれば、

それに伴うのは自己中心的な思想だ。

中学偏で起こる破壊の数々もそれから来ている。

 

あともう一つキーワードになるのが“空っぽ”、“普通でない”と“依存”。

 

今アニメでやっている“クズの本懐”のヒロイン、花火も思春期の真っ只中で、

自分を“空っぽ”だと感じている。

彼女は他人の評価で自尊心やら存在価値を満たそうとし、その結果、他人に依存する。

 

「惡の華」の主人公の春日は“特別”になることでそれを満たそうとする。

難しい本や詩集を読む事から初めるものの、自己満足の域でしかないと気付く。

それから“普通でない”仲村に惹かれていき、

恋だかなんだかわからない感情のまま、仲村を“救いたい”と言う。

 

でもその裏で本当に春日が欲していたのはやはり“特別”になること。

自分だけの力ではそれには到底近づけないと感じた春日は“特別”である仲村を神化し、

奴隷に近い身分となり、“普通でない”行為を積極的にし始める。

 

“救う”というのも結局、“特別”である彼女を救ったら、自分も特別になれると思ったん

だろうね。

中学偏では“仲村さんのため”と言いながらすべて“自分のため”だったのです。

 

高校偏

*これよりネタバレはあるので、興味を持った人はここまで。

是非是非自分でも読んでみてから、戻ってきて!!!*

 

 

高校偏は同じ学校の文(あや)という女性との出会いの中で、

春日が少しづつ変わってゆくのが描かれる。

 

当初、文は中学時代の記憶を呼び覚まし、連想させる存在でしかなかった。

彼女を通し、本が好きだった“自分”を思い出した。

そして何よりも、仲村を思い出させ、被せる事ができた。

 

でもそれも変わる。

その変化のキモとなっているのが、

“向き合う”事と、“理解する”事だ。

 

まず春日が何に向き合ったのかというと、

仲村の亡霊と悪の華だ。

 

向き合う

それはすなわち逃げないということ。

 

このシーンで仲村の亡霊と悪の華は過去、

影は“自分”だろう。

(すごくややこしいが、影と悪の華は別ものです)

 

中学の出来事以来、春日は過去から逃げ、家族も避けていた。

影の言葉、そして仲村という過去を前に春日は怯えた。

また逃げようとした。

 

だが文のおかげで踏みとどまる。

そして一つの決断をする。

 

f:id:hamuhamukun:20170707072240j:plain

 

この幽霊とは仲村の亡霊のことであり、

過去を示している。

 

だからこの台詞はこうなる

“僕にはできない。

一生過去の世界で生きていくなんて”

 

f:id:hamuhamukun:20170707072711j:plain

それはすなわち、仲村からの決別を意味し、

悪の華を潰した事がこれを示している。

 

この決別は、同時に文という一人の人間に歩みよるということも含まれている。

だからこそ告白へと繋がる。

 

“僕がきみの幽霊を殺す。

下りよう、この線路から。

きみが好きだ”

 

いやー、マジかっこ良かったわー。

この何が良いってやっぱり相手の心の奥底に潜んでいるモノを的確に捉えていること。

 

ここで二つ目のキーワードの“理解”が入ってくる。

仲村との時は“救いたい”と言いながらの“特別”が欲しいだけであった。

表面上では一緒のモノを求めているように見えたが、その実違った。

だから最後に仲村とすれ違った。

 

だが今回は違う。

春日が求めているのは文が持つ何かの特質ではなく、文本人だ。

 

そして文は春日が自分の本当の理解者になり得ると感じた。

そして春日となら自分が幽霊でい続ける必要がなくなると思えた。

はー、マジでカッコ良いよ。。

 

 ここから、春日はどんどん自分の過去と向き合ってゆく。

 

“この傷がたとえ治っても傷跡は無くならないから。

どこかで必ず向き合わなきゃいけなくなる

だから、行くよ”

 

“このまま常盤さんにはずっと何も言わないでおこうと思ってた。

常盤さんには関係ないことだって。

それを押し付けるのはエゴだって。

でも過去は消せない。

めぐりめぐって僕の前に立ちふさがる

 

そして最終的には亡霊でない、仲村本人と会う。

この際、文も春日の理解者になりたいという思いから同行する。

 

二人に会い、話を一通りした後、仲村は去ろうとする。(逃げようと)

それを春日が止め、自分の気持ちを行動でぶつけた後、春日は言う

 

“僕はうれしい。

仲村さんが消えないでいてくれて”

 

仲村は春日の苦い過去の象徴である。

だからこれは自分の過去を受け入れたからこそ言える台詞。

それと同時に、過去が現在の“自分”を形作っているという理解と感謝も込められている。

 

この後、今度は仲村が春日に感情をぶつける。

主に言葉でそれを表現してきた仲村だったが、今回は行動で表現する。

中学の出来事、その時の思い、春日への想い、すべてぶつけたのだろう。

 

春日もやり返し、文をも巻き込む。

でもその行動の結末は涙ではなく、笑顔だった。

口下手な仲村にとって、この取っ組み合いは、理解し合う手段だったのだろう。

 

春日はそうやってすべての過去と向き合い、

文とお互い理解を深め合って、家庭を持つ。

はー、なんか良いな~。羨ましいぞ!!! 笑

 

二人と会った後、仲村も過去と“向き合う”ことが出来たみたいだった。

その当時、自分が一番望んでいた死を拒んだ父と何年かぶりに会ったのだから。

 

良かったーー。

彼女にも幸せな未来が待っていると信じる!

青春時代、もがいた子の方が立派な大人になれると思うし。

 

最後に

最終巻の最後には、

“何にも終わりはありません”と書いてある。

“おい!”って感じだけど、これは“向き合い続ける”重要性を説いているのだろう。

 

最終巻の152-159ページはマジ不穏。

あれは気持ち悪かった。

 

すべてと向き合ったように思えた春日であったが、

“向き合い続けなければいけない”と感じたシーンのようだ。

そうしないと、悪の華は再び眼を開けてしまうのかもしれないね。

 

では“悪の華”とはなんなのか。

思春期の象徴であろう。

 

では“思春期”とは何か。

やはり自己中心的な思想だと考える。

 

相手をちゃんと理解しようとせず、

あの人は自分には合う・合わないとか、

あの人は高嶺の花だとかブスだとかもそう。

こういうのって全部、相手をちゃんと見ようとしていない。

表面しかなぞってない。

 

そしてその対比になるのが、他人を分かろうとする努力。

これは春日と文が見せたような、幸せへの道へと繋がっているといえるのであろう。

 

「惡の華」という作品は個人個人で捉え方は随分違うみたい。

だから感想を書いている人はみんな、ちょっとずつ違う意見を出している。

そこには“正解”はないのだろう。

あるのは“自分”がどう捉えるかだけ。